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●地域情報〜名所・史跡情報(1) |
瀬田の散策
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瀬田は、平安京の東の玄関口として、古くから交通の要衝として開け栄えた街であり、豊かな歴史と文化に恵まれたところといえます。それだけに、瀬田には名勝や史跡、文化財、伝説、伝承などが数多く残されています。
下記情報は大津市編纂「ふるさと大津歴史文庫」の各巻およびその他の資料を参考にしております。 |
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俵藤太と橋守神社【たわらのとうた と はしのもりじんじゃ】
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瀬田の唐橋の畔にある「松風の帆にはとどかず夕霞」という山崎茶酔の句碑から川に沿って少し下ると橋守神社があります。 別名「龍王宮」ともいい、豊玉姫命と、ムカデ退治で有名な俵藤太秀郷が祀られています。 「橋守神社」の名前は、交通の要衝であった瀬田の唐橋を守護していることから名付けられました。この神社の中央には、注連縄を張った古い木がありますが、この木は龍神木と呼ばれています。
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この社の東に浄土宗「雲住寺」があり、ここには俵藤太の系図や版木、その他遺品が保存されています。 |
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〜 俵藤太のムカデ退治 〜 |
朱雀天皇の御代、近江国栗太郡田原村の住人藤原秀郷は田原藤太とも呼ばれ、幼少のころより武勇の誉れが高かった。
ある日のこと、橋に長さ20丈(約60メートル)にも及ぶ大蛇がとぐろを巻いていたが、秀郷が恐れず平然とその背を踏み越えていく様子を見たある男が、 秀郷に自分の敵を討ち取ってほしいと頼んできた。そこで秀郷が承知すると、男は秀郷を瀬田川の水中にある竜宮城に招待し、たいそうもてなした。
そのうち夜半過ぎになって突如激しい風雨と雷鳴が起こり、東の方から左右の手にたいまつを握った大百足が向かってきたため、 秀郷は百足を充分に引き付け、大弓を百足の眉間に2回放ったが撥ねかえされた。そこで、古老の伝えから矢の先に唾をつけ、満身の力を込めて矢を放つと、 見事に百足の眉間を射貫き、大百足は大地を響かせる轟音とともに倒れ、無数のたいまつはたちまちのうちに消え失せた。
秀郷が大百足を討ち取ったのを見て、竜宮城の人たちは様々なお礼品を秀郷に贈ったが、特に米俵はいくら米を食べても尽きることはなかったので、 都の人々は彼のことを「俵藤太」と呼ぶようになり、またその時贈られた赤銅の撞鐘は園城寺に寄進され、のちに弁慶にまつわる伝説が生まれたといわれています。
その後、秀郷は関東で朝廷に反乱を企てた平将門を討ち取り、一躍その名を天下に轟かせましたが、これは瀬田の竜神の加護によるものだといいます。 |
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JRびわ湖線瀬田駅のすぐ隣にあり、本殿は南面して鎮座しており、参道は、西側から入り拝殿の前で北に折れる鍵形になっています。
雄略天皇6年に、彦坐王命の第4世に当たる治田連が、栗太郡一円の開発にあたり、遠祖の開花天皇を斎祀したことに始まると伝えられており、江戸時代以前は「九帝王宮」と呼ばれていました。
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また、和銅8年(715)に旱害に際し雨乞いをしたところ、山中の洞窟より霊亀が出てきて大雨を降らせたという言い伝えが残されています。 |
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国道一号線、大江交差点南の道を西に入ると、若松神社の参道にでます。
光仁天皇の宝亀8年(777)大旱魃によりびわ湖の水が枯れたとき、天皇が武甕槌命、齋主命の二神により満珠を与えられる夢を見、時を経ず雨が降ったため、齋主命を勧請したのが始まりといわれています。
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また、大江匡衡卿が当地に住んでいたころ、娘の侍従がある夜女房に宿を貸したところ、その女房が6寸の白蛇となり一本の若松が生じたといわれており、ここに社を建てて霊神を崇め、若松の宇賀大明神として祀ったそうです。
5月5日に例祭が行われますが、高さ約5mの3基の鉾を厄年の振り手が二人一組で、長い鉾を持ち上げ振りながら拝殿を周って参道へ向かう鉾振りが有名です。 |
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この池は、県下で2番目に大きい池で、昔は蓮の名所として名高かったことが古誌に記され、今でも山紫水明の静寂な地です。古くは、月輪関白藤原兼実の荘園があったといわれており、「養老元年…………超明僧」と彫られた黒い石が出土し、月輪の超明寺に保存されています。
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